一握の真砂

ジャズりんご

摂食障害垢やダイエット垢の「ごめんなさい」に関する前々からの疑問

「摂食(障害)垢」「ダイエット垢」という存在をご存知だろうか。

ツイッターではしばしば「〜垢」という表現でその内容に関することを主とするアカウントであると主張することがある。摂食垢やダイエット垢もそのうちのひとつだ。

 

摂食障害では諸々の精神的・対人的な問題から食べ物を食べられなくなったり、あるいは自分から(過度に痩せたいと)望んで食べなかったりする拒食、また食べ過ぎてしまう過食、そしてそれを吐き戻してしまう過食嘔吐などが見られる。 ダイエットは身の周りで多く使われているそのままの意味だ。減量や筋トレのことを指す。 その摂食障害垢やダイエット垢で散見する表現について取り上げたい。

基本的に、摂食障害垢やダイエット垢をプロフィール欄に掲げる人たちはツイッターの投稿を記録とその共有に使っているようだ。 例えば、ダイエット垢では今日の朝食はこれで昼食はこれで、とメニューを書いて写真を載せて、それらのカロリー計算をしたり、その日の体重を記録したり、自分の体型を写真で撮って変化を観察したり、そういった記録のツイートが多い。 摂食障害垢では例えば過食する人の場合いわゆる「過食材」(おそらく過食+食材、過食するために食べるもの)を床やテーブル一面に並べた写真を撮ってツイートしたり、拒食の人の場合では「今日はこれだけで済んだ」と食事内容を記載することがある。それから「食べたい」という本能的な欲求、そしてそれに伴う「食べてはいけない」という葛藤も。摂食障害克服中、という人もいる。それに関しても、前述の二つと同じように、食事の内容や体重を記載して、だんだんと拒食や過食や嘔吐を避ける方向に進みたい、という人たちである。 どのアカウント群にも共通するのが、 「今日は食べ(過ぎ)てしまった」(過食をしてしまった、あるいは拒食の人であれば自分の許せない量を食べてしまった/ダイエット垢であればおやつや三食の量が多かった、自分の取り決めで禁止していたこってりのラーメンを食べてしまったなど)という日と、 「今日は食べなかった」(食べないで済んだ/過食をしなかった/おやつを我慢できた)という日のツイートがあることである。 今回取り上げる表現の疑問は食べ過ぎてしまった日の発言にある。 彼女らが食べ物を食べ過ぎたとき、そしてそれはおそらく自分で決めた量を守れなかったとき、「ごめんなさい」という言葉が頻繁に出てくる。

少し検索してほしい。“過食 ごめんなさい“ とかで。ツイートの引用もはてなでは可能であるが、特定の人をとくべつ取り上げることに気が引けるのでここでは行わない。 “ダイエット垢“や”摂食垢”などで検索して、出てきたアカウントのツイートをざーっと眺めるのもいいと思う。ツイートの内容が一定して食事の記録とそのコメントであるアカウントなら、どこかに必ず「今日はどうしても我慢できなくて食べ過ぎてしまいました。ごめんなさい。明日からまた心機一転してダイエットがんばります💪」のような表現が出てくるはずだ。 この「ごめんなさい」という謝罪の表現は誰に向けられたものなのか? また(ダイエットや過食克服の目標を立てた人が)食べ過ぎたことを自省することは理解できるが、なぜ「誰かに」謝る必要性があるのか?

ひとつはそれらのアカウントがSNS(ここではツイッター)上に存在することが原因かと考えられる。彼女らはそのアカウントの運用を相互監視している(無意識にでも)。 ダイエット垢では「同じ目標を掲げて頑張っているのにみんなのモチベーションを下げるようなことをしてごめんなさい」ということなのだろうか。もともとダイエット垢では「⚪︎⚪︎kgが目標です、減量して綺麗になりたい。」という内容と一緒に #ダイエット垢さんと繋がりたい というタグが用いられダイエット垢同士のみでフォローし合うことが多いから、おそらくダイエット垢に関していえば「みんなでダイエットを頑張っているのに私は我慢ができませんでした」とフォロワーのみんなに向けて反省文を提出している振る舞いが考えられる。

しかしダイエット垢よりもわかりにくいのが摂食垢における「ごめんなさい」だ。 摂食垢にはいろんな段階の人がいる。ダイエットが過ぎて不本意にも拒食になった人、拒食でつくられた身体を美とするために自発的に断食に近いことをする人、過食をやめたいけどストレスがかかると過食をしてしまう人、食事を我慢し、そして過食し、嘔吐し、そのループを断ち切れない人。 拒食・過食・嘔吐についてポジティブな人もネガティヴな人もどちらもいる。ポジティブな書き方をしている人たちでは、衝動的なストレス発散の手段として過食嘔吐を使っているとか、どんどん体重の数値が減るのが嬉しいので前向きに拒食をしているとか。ネガティヴな書き方をしている人たちでは、摂食障害から脱したい(だが脱せない)という様子が伺える書き方が多い。摂食行動と罪悪感がセットになっている。 そこで出てくる「ごめんなさい」である。

アルコール依存症自助グループにAA(アルコホリクス・アノニマス)というのがある。匿名性の保たれた、アルコール依存症患者の集いである。AAの詳細については検索してほしいが、たとえば漫画『健康で文化的な最低限度の生活』(著者:柏木ハルコ小学館、2014~)において「赤嶺岳人(あかみね たけと)のケース」で具体的に描写されていたりする。映画「ファイト・クラブ」冒頭でも多くの自助グループの描写がある。観たことがある人は参考にしてほしい。その場で行われることは、告解的な、たとえば「開かれた懺悔室」があればこういう風だろうか、という告白である。聴者はその告白に対して否定も肯定もしない。ただ話し、それを聞く。話し手は自分のアルコールとそれに関係する過去・現在・未来について話すが、それについて聴者からコメントを受けたり、その内容が外部に漏れることは無いように配慮がなされている。

摂食垢の「ごめんなさい」は、このAAの話し方における表明に近いものを感じた。ただ話し、ただ聞く。否定も肯定もされない。たまにそういったツイートに「●●ちゃんは頑張ってるから、また明日から頑張ればいいよ」や「わかる、私も食べちゃった」などのリプライが付いていることもあるが、言及されないことが多いように見受けられる。

摂食垢は特に、このAA性(匿名であること、依存症に関すること、告白すること、それをただ話し、聞くこと)が高いのではないだろうか。

 

以上、AAとダイエット・摂食垢における「ごめんなさい」の親近感に対するモヤモヤの言語化でした。何か付加するご意見があればリプライ等でください。

それではまた。