一握の真砂

ジャズりんご

頭の中で起きていることを書くというのは

目の前で起きた、あるいは起こったことを書くよりも難しい。ある程度聡明な中学二年生くらいならすでに気が付いていそうな事実にいまさら慄いている。

アルジャーノンに花束を』を思い出す。主人公のチャーリィの「経過報告」は、はじめは事実の羅列が殆どだったが、IQが上がる(という設定の部分になる)につれて、抽象的な考えやアイデアと呼ぶべきようなもの、考察、理論、論理的思考による物事の結びつきに移り変わっていった。あれだ。知的な部分が未成熟な、たとえば子供のうちは、「祈り」とか「愛」とか「倫理」とか、そういう概念的なことについて語るのはとても難しい。

大学で勉強してレポートを各授業で提出したことと、卒業論文を書いたことで「Aという事象が観察された。これから述べることができるのはBだと思われる。Cについては先行研究を掘り返しつつこれから探っていきたい」みたいな文章ばかり書いていたせいで、情緒的なことばのテクスタイルがどんなものだったのか、私は忘れかけている気がしてならない。それは非常に残念なことだ。

私も涼し気な風が透き通るようなさわやかな、インスタグラムを跋扈するナウな女子高生にバカウケのエモで映えな日記や散文などが書けるとよいのだが、真夏にエアコンをつけ忘れたままなんだかあいまいなまま性交に及んだ後ぬるんだ麦茶やビー玉をポンッてして開けるソーダを飲む、などの気怠い記憶がないので、人間日々の自分の身の丈に合った生活を各々踏みしめていきましょうということなのだと思う。ちなみに私は村上春樹の小説を「なんだかあいまいなまま性交に及ぶ文章の群れ」と評価している。ノルウェイの森しかちゃんとは読んだことないけど。

基本ブログの文章は推敲しないことが多い。もちろん誤字脱字・矛盾は無いに越したことはないが、ブログ記事という単位で自分の考えを執筆、保存、加筆、修正、保存、推敲、修正、としているといつまで経っても記事が日の目を見ないため、なるべく書いたらすぐにアップロードするようにしている(事実関係の確認が必要なものを除いて)。

そうだ、今日ブログを書きだした切っ掛けは合同誌にお誘いいただいたことだった。私にまだ情緒的なテクスタイルを織る力が残っていればいいのだが。