一握の真砂

ジャズりんご

オードムーゲとニキビ

今回は小林製薬の薬用ローション「オードムーゲ」と肌荒れについて書く。

これはマーケティングの記事として書くものではない。

 

11月の半ばごろから顔中が荒れていた。ニキビがあったのは主に額、口の周り、顎である。頬はうっすら荒れかけている、といった具合で明らかなニキビはまだ無かった。

荒れ方としては赤く膿を持った小さめのニキビがいくつもできる、というかたちで、ふだん肌荒れのない私がこんなに長期間治らない肌荒れをするのは珍事であった。

普段通りの保湿をしても治らないので、肌荒れに対応したものをなにか買おうと思った。Google先生に訊いてみるといくつかの商品がよさそうだというのがわかったので、なんとなく製薬だし小林製薬の商品のほうが効くかな、くらいの気持ちでオードムーゲの薬用ローションを買ってみた。

 

結論から言うと三日ほどでかなりの改善が見られた。突然のなかなか治らないニキビに悩まされている人は使ってみるといいと思う。

使い方としては風呂上りに手に取ったローションを顔に塗り、次に乳液等じぶんのいつもやっている手入れをし、また朝起きたらローションをコットンに含ませて顔を拭く、というやり方であった。

 

食事も睡眠もストレス度合いもなにも変化がないのに、たぶんホルモンバランスの急激な崩れ的なものがあったのだろうか、そういうときに殺菌・消炎を最大限がんばってくれている感じだった、オードムーゲ。

私はふだんエタノール入りの化粧水はピリピリしたり、次の乳液等の塗布に入るまでに揮発・乾燥するのが嫌で買わないのだが、オードムーゲのローションならコットンに染ませて寝起きの顔を拭くなどすると随分さっぱりするし、ニキビに悩んでいない時期でも今後はストックあるといいかもしれない、と思っているところである。

他にもクリームやミルクや泡洗顔料などなどいろいろあるらしいので、また肌荒れがひどくなったら頼るかもしれない。

今回は以上。

初めて自分で洋梨を買って食べたこと

今日の話は題名通りだ。生まれて初めて自分で洋梨を買って食べた。 和梨は好きで、あれば食べていた。あれば、というのは実家で盆暮れ正月その他の法事等々がある際に果物の盆に盛られるためにそのおこぼれをもらうという意味で、正直そういう意味では和梨もあまり自分では買って食べていないのかもしれなかった。
洋梨に対しては悪いイメージがあった。おそらく初めて食べたのが熟れていなかったのだと思う。ごりごりでジャリジャリした、薄甘いなにかという印象が強かった。 しかし今回店頭に並んでいたものは、果皮が黄色く、光沢を抑えた檸檬くらいには、どうにも「おいしい果実」らしい見た目をしていた。 果実を包むビニールのパッケージに「ル・レクチェ」と書いてあった。名前を手掛かりに検索したところ、なかなかいいやつらしかった。以下にWikipediaのリンクを貼る。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB_%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%81%E3%82%A8

食べた感じ : 味は和梨と似ていると思う。上品な甘さである。和梨と決定的に違うのが食感である。和梨がさりさりとしているのに対して、このル・レクチェはとてもムチムチとしていた。弾力が強い。好みであった。
特売日に安売りされていたから、というだけの理由で、よし、安いのなら食べたことのないものにも挑戦してみようと思ってひとつだけ買ったのだが、おいしすぎてもう二つ三つ買いに勇気を出して(今日は特に夕方まで具合が悪かった)行く始末である。特売ではなかったので、三つ欲しかったところを二つに抑えたのは、食べきる前に飽きるかもしれないという気持ちもあってのことだった。私は酷い飽き性である。

ル・レクチェ、おすすめです。

[追記]
今回は雑な話だったのでWikipediaページにリンクを貼ったが正直あまりやりたくはなかった。それと果皮が緑の洋梨も隣に並んでいたので、旬を逃さないうちに買って食べ比べしたいと思う。

何もしてなかったのは

ずっと何も書かず何もできずいたのは双極性障害が酷く悪化していたせいです

以上

書く書くといった矢先のブログ放置についてはまあそういう事情で、どうやら冬季に私の場合は精神的な部分が悪化したり揺れがちになるようである。

医者に「周期的にどうも冬は駄目らしい」と話したところ「12月に悪化する人はやはり多い」とのことだった。年が終わることで「ああ今年も……」的な思いが募るものらしい。私の場合は単に急に寒くなることが悪く作用している気がする。自分の病気に夏も冬もないなと思っているので、学生時代からの住処の冬は、がくんと気温が下がったり冷え込んだりすることで身体的なストレスをそのまま受けている、という感触がある。ちなみに夏も夏で変わり目はつらい。学生時代から初夏は毎年頭痛との戦いであった。目が日光に弱く、ひと月ほどかけて目が慣れるまで夏の始まりはいつも30分屋外にいただけで激しい頭痛と倦怠感に襲われる有様であった。サングラスを買えばいいと思う。次の夏は買いたい。それまで生存しているかは不明である。

そういえば先日チェーン呉服屋の展示販売会に行った。時期外れの商品等が安く売り出される展示会であった。ある反物の紹介で「これは夏物の大島(紬)なんですよ」と言われ、太宰じゃん、と思った。(これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。『葉』)

太宰の長編小説は好かない。短編は良いと思う。

カレーじゃない

カレーじゃない、だろう。

神戸市の東須磨小学校における教員間でのいじめが話題である。以下に毎日新聞の記事を引用する。

https://mainichi.jp/articles/20191009/k00/00m/040/193000c

 

教員のうちの1人は「自分が面白ければよかった。悪ふざけでやっていた」と話したという。

 

なにか人に対してひどいことをしたとき、人を傷つけたとき、人をかなしませたとき、それに対して「悪気はなかった」と言うのは最も悪辣で、救いようがなくて、最低なことだ。悪人はまだ救いようがある。なぜか。悪人はそれが悪いことだとわかってそれをやっているからだ。悪人には善悪の区別がつき、また悪人は秩序の有無が理解できているからこそ、彼は悪人たりえるのだ。

馬鹿を救う方法を依然私たちは知らない。それは非常に残念で、かなしいことだ。今回は小学生を教育・指導する立場の人間が、これから未来を生きていく人間の範となるべき人間が、救いようのない馬鹿だったということだ。それはとても残念で、かなしいことだ。だが世界には残念でかなしいことがあふれていて、今回はそれがこのケースであった、という見方もできる。私は文章を書くことくらいしかできないから、この世界にあふれている残念でかなしいことには、無力だな、と思う。

 

伊坂幸太郎グラスホッパー』に鯨というキャラクターが出る。鯨は自殺させ屋さんである。彼の初登場シーンで、鯨は議員秘書だったか、を自殺させようとする。そのまさに議員秘書を自殺させん、とするシーンで、地の文にこんなようなことが書かれる。またしても生憎原本が手元にないのであいまいな記憶が頼りだが、「自殺すると、世間はもういいかという空気になる。自殺までしたのだから、これ以上責めるのはかわいそうだ、という風潮が生まれる」という内容だ。

たしかに、なにか問題になることが世間に露呈したとき、我々は何らかのかたちで「責任を取る」姿勢を見せることが要求される。それが実質的に意味のあるものでも、ないものでも、問題を取り上げるマスコミやメディアに対して「なにかしていますよ(だからもう勘弁してくれませんか?)」というパフォーマンスを発信する。

 東須磨小学校では「被害教員が激辛カレーを目に擦り付けられるなどのいじめを受けたことから」カレーが給食のメニューから外れることになったそうだ。

https://www.mbs.jp/news/kansainews/20191017/GE00030045.shtml

学校では問題の発覚後、児童4人が不登校になり、現在も内2人が休んでいるということです。市教委は、動画が撮影された家庭科室を改修するほか、給食の献立からカレーを外すなど、児童らの生活にも影響が出ています。  *1 

 

カレーは物語の中で自殺した議員秘書のように、騒ぎを鎮火させる礎となれるのだろうか。

 

ちなみに‪劜という漢字は「アツ」と読む。カレーではない。

*1:下線部は筆者による

夜は雨が降った

料理において慎重さは美徳だ、と店長が言った。店長というのは昔私がバイトをしていた居酒屋の店長である。料理中ほかのことをしようとすると火の加減や焦げ付きや煮えすぎが気になって集中できないし、私は完全にシングルタスクマンなので料理中に本など読みだしたら煮汁が乾上がって鍋底に穴があくまで気が付けないだろう、ということで、私の料理には多くのリソースが投入される。厄介な性分だ。

読み書きをしながら煮炊きをするとき、読み書きには全く集中していない。たぶん2:8くらいだろうか。8は料理に意識を配分していないと、焦がす、鍋に穴をあける、失敗する、ということが予想される。集中の配分、それを考えると私はマルチタスク者とは程遠い。というのは最近気づいたことだ。最近気づいた、逆にいうとそれまで気づかなかった、のはこの頃はだらけきった生活をしていて全く集中とは離れた暮らしをしているからだ。

料理において慎重さは美徳だ、と店長は言った。そうしたら、読み書きにおいて美徳とされることはなんだろうか。

慎重に読む、というのはいいことかもしれない。世の中に出回っている文章は妥当性にかけるものが殆どだ。特にこのメディアが多様化してしまった今世では。伊坂幸太郎陽気なギャングが地球を回す』で印象的な台詞がある。確か久遠が言ったと思う。今住んでいる家に原本がないので完璧な引用は難しいのだが、「本に書いてあることで正確なことは定価だけだ」というような台詞だ。この頃は特にそうだな、と思う。私は本屋で平積みになっているなんとか簡単ダイエットやらなんとか健康法、長生きしたかったらうんたらかんたらをしなさい/するな、という命令文でタイトルがついているあの本たちを憎んでいる。

先日Twitterですごい文言を見た。「血液クレンジング」。個人的な話をすると、うちの親は水素水を肯定的な目線で見ている。たぶん、血液クレンジングをやる、と言ったら私は中学校理科の教科書を持ち出して止めるか、それでもだめなら見捨てるだろう、と思った。

まあ似非科学の話はどうでもいい。どう読むか、という話を深めよう。

批判的に読む、というのは大学教育の柱であろう。私は就職する勇気もなく、専門学校に行くほどの興味ある分野もなく、なんとなくやりたいことをやろうかなで大学進学したクチだが、資料を批判的に読むというのは大学に行かなければ身につかなかったスキルかな、と思う。元来そう頭の出来がいいほうではないのだ。批判的に読み、正確性と妥当性に欠ける箇所があればなぜそうなっているのかを精査していく。データや情報のソースを自分で確かめる。これができるようになったので4年間金を払って勉強と研究をする意味は十分にあると思う。

『モードの迷宮』を読んで服飾について考えたり比較したことを書こうと思っていたのだが、週末に現代音楽? というのだろうか、私には定義できないジャンルのライブがあり、観に行くので音楽史の本を一冊読んでからそっちを先に考えることにした。何が書けるかはまだわからない。実らないかもしれないが、種を植えるか畑を耕すくらいの行為にはなろう。

ちなみに今日は1ページも本が読めなかった。朝一度起きて、それから夜まで寝続けていたせいた。精神状態もかなり悪かった。やりたいとかやろうと思うことがあるのにそれができないとき、死んだほうがマシだな、とよく思う。今日に関して言えば、雨も降り始めたので気圧とかのことがあったのかもしれない。

書くことについて:

PCに向かってタイプをしている時間だけが書くことではない、とブログでまとまった文章を書くようになってからようやく気付いた。なぜ卒論執筆時に気づかなかったのだろう。阿呆だからだろうか。たぶんそうだ。

書くことは、私にとっては8割か9割が読むことである。読まないと書けない。というのは、文章の構成を見て自分の書き方を世界のどこかに位置づけるというのもあるし、そもそもその本が何を言っているのか、著者は何を言いたいのか、それに対して自分の精神的な部分がどう反応するか、それをじっと観測しなければならない、ということだ。自分の書き言葉(この頃は打ち言葉も)に対する反応、それを観察して本流の文章から派生した、まだ言語化されていないなにか、それを文字に、文に、それを編んで文章として産出することが書くことであって、何も読まない/体験しないで書けることはそうそうないのだろうと思う。少なくとも、私のような凡夫にとっては。

読み書きにとっての美徳は真摯であることだろう。これは哲学とか倫理学とか研究をやるうえではなんでもそうだろうが。自分にも他人にも嘘をつかないでいることが読み書きにおける美徳であろう、と今夜はこのあたりで締めることにする。

夜に差し掛かったときから雨が降っていた。金木犀のにおいが濃密になって、やけに甘ったるかった。私は晴れた夕方の金木犀のほうが好きだと思った。

香る金木犀

週一で文章を上げるつもりだったが今週は書けそうにない、というのは本を読めていないからだ。発達障害者とその服飾について鷲田清一『モードの迷宮』を読んでなにかしら述べるつもりだった。抑鬱が酷く、紙面よりも天井を見つめている時間が長いため今週中には書き上がらないと思う。私が私の文章を書くということはPCを立ち上げてタイプをすることではなくて8:2くらいの割合で読むことのほうが大きいので……。

今日は夜散歩をした。肉を求めてコンビニを三軒回ったが、生憎どこもホットスナックは在庫切れだった。肉が食べたいときというのは蛋白質と鉄分が足りないらしい。

行きと帰りの道で金木犀が強く香った。もう冷たくなった空気に薄甘い花の香りが充満していてまた今年も冬に差し掛かるのだと思った。

はじめに寄す

評論文を書きたいと思った。しかし評論には膨大で正確な知識の引用が要る。私にはまだ多くの知識はないのでとにかく他人の書いた本を読んで勉強しながら文章を書こうと決めた。前に日記をつけると決めたときは日々の行動記録に終始し、たいして脳が興奮しなかったので三日坊主の文字通り三日で飽きた。今回は一週間に四千から五千字程度の文章を書ければ、と思って週一本にその評論だか散文だかを上げることにした。

さきに述べたように評論をやるには膨大な知識や種々の思想に関する造詣が無いとまともなものは書かれないので、書きたいと思うほどに脳に知識が溜まったら徐々に書き始めていこうと思う。評論は高校のころ書いた意見文とは違って、より強固で、正確で、精密に固められた論理が要る、のだと思っている(インターネットの発達でだれでも論ずることができるようになりそのハードルは下がっているのだろうが)。

幸いにも時間と書籍だけはたくさんあるので、好きなだけ知識を脳に入れ込んでいこうと思う。しかしそれにしても高校生までと比べて文章が頭に入っていかない感覚がある。強迫的に駆り立てられる気持ちがないからだろう。あの頃の私にとっては学校というきまった場所の流れに振り落とされないことだけが人生の殆どだった。

 

週に五千字、月に四本書いて二万字とするならたしか卒論と同じくらいの文字量になる。

私は卒業論文で何字くらい書いたかもう忘れたが、学科の風潮? 目安? として二万字を超える程度、とあるらしいことを聞いていたので二万字を超えた量で提出した。ひとつのトピックに対して一週間集中してリサーチと執筆と推敲に時間をかけていいなら、たとえば鷲田清一小林秀雄といったたいへん著名な評論家らのような思考の広がりのある名文は書けなくても、まあインターネットの片隅に存在を許されるくらいの文章にはなろう。

 

文章を書くことが好きだと自覚したのは高校生の時分だが、しかし私に小説の才能は無かった。その代わりくだらない創作文を散々書いて時間を無駄にしたおかげで気が付いたことがある。私は文章を構成するために言葉を捏ねくり回すのが大好きだ。

高校の課題では意見文と小論文が好きだった。意見文は何をテーマにしてもよかったのでとても楽しかった。自分が正しいと思うことについて自分は正しいと思う根拠をかき集め、言葉を選定し、文章を編む作業にはしずかな、しかし大きな高揚感があって、私はそれをまた感じたいために今回の課題を設定している。

小論文はものによってはつまらなかった。小論文模試ではテーマがあらかじめ決められていることが殆どだし、「ウケる書き方」も決まっている。ウケる書き方で書かれた作文はつまらない。就職活動の面接でベラベラとだれが話しても替えのきくようなありきたりの意見、たとえば御社の経営理念に共感して、とか、そういったお決まりの思想というか、文言が小論文模試の答案には存在する(注:個人の見解です)。そういうのが好きな大学の受験では受かるだろうが、私の脳は興奮しない。そんなものを私が書く必要はないし、頼まれても書きたくない。

というので小論文が二本課されるちょっとアレな大学(注:個人の見解です)の後期試験を受けたら受かったので行った。後期は倍率が大変なことになるしまあ受かったらラッキーかなくらいの気持ちでいたが、意外と後期試験は申込だけして欠席する受験者が多いようで、私のときも空席は目立っていた。三分の一か、半分くらいはもしかしたらいなかったのかもしれない。そして試験中はひたすら楽しかった。おそらくそのときもずいぶん脳が興奮していたと思う。本命で希望の学部学科の試験だったので、与えられた課題について考えることなど試験というよりももはや趣味とか娯楽の範疇である。母校に関して言えば、ありきたりな、それこそ小論文模試の回答のような優等生的模範解答を出したら逆に落ちていたと思う。誰でも言えるようなことしか言えないなら、合格が「その人」である必要はない。しかしそういうおとなしい文章が好みの学校もあるようだから、小論文試験を受験する際にはリサーチが必要らしいことを高校三年生の終わりに知った。

私の年度ではソクラテス無知の知についての日本語文を読み、それについて要約と自分の意見を書くこと、それから外国語を学習することに関する英文を読み同じく要約と意見を書くことが要求された。無知の知についてはあまり何を書いたか覚えていないが、外国語学習については日本の言語教育をひたすら罵倒していたら解答欄が埋まった記憶がある(外国語を覚えるよりも日本語レベルの体系と語彙数のある母語を持つなら先に母語の運用能力を上げるべきだ、日本の学校文科省は一体いつそれに気が付くのか? というような怒りを吐露していた気がする)。

 

ところでその小論文で合格して通っていた大学に居たあいだに使っていた奨学金、それについて返還猶予申請の可否を知らせる封書が今日届いた。リジェクトされていたら死ぬしかないなと思いながら開封したら通っていたのでまだしばらく生きていてもよいことになった。

 

今はyoutubeで雷雨の音を流しながらこれを書いている。本当はNirvanaのアルバムを聞きたかったのだが同居人にメッセージで置き場所を尋ねたところ返事がまだないので仕方がない(私は今の部屋に自分のCDを一枚も置いていないので、この部屋にあるCDは全て同居人の私物である)。換気のために居室のドアを開けており、換気扇の音が集中を削ぐので音を聞きたかった。雷雨の音は学生時代からよく使っていた。ある程度一定で、ある程度ばらついていて、脳の動き回るのを邪魔しない。

 

と、いまここで二千字程度である。

高校の意見文はゴールデンウィークの一週間程度に課される課題であった。私は三年時原稿用紙に七枚書いて提出したので、改行も考えると二千八百字よりは少ない字数だったことになる。四から五千字で書きたいという目標は単純に原稿用紙十枚は四千字、しかし切りが悪いので五千字でもいいか、というところからきている。引用をするならおそらくそれくらいは必要になろう。

 

これからトピックのメモ的なことがらや、言語化が成立していない雑感としてのメモ書きもあるだろうが、とりあえず毎週なにかしらについて調べて考えたことを書いていく。

ということで今日はこれで終わりにする。