一握の真砂

ジャズりんご

はじめに寄す

評論文を書きたいと思った。しかし評論には膨大で正確な知識の引用が要る。私にはまだ多くの知識はないのでとにかく他人の書いた本を読んで勉強しながら文章を書こうと決めた。前に日記をつけると決めたときは日々の行動記録に終始し、たいして脳が興奮しなかったので三日坊主の文字通り三日で飽きた。今回は一週間に四千から五千字程度の文章を書ければ、と思って週一本にその評論だか散文だかを上げることにした。

さきに述べたように評論をやるには膨大な知識や種々の思想に関する造詣が無いとまともなものは書かれないので、書きたいと思うほどに脳に知識が溜まったら徐々に書き始めていこうと思う。評論は高校のころ書いた意見文とは違って、より強固で、正確で、精密に固められた論理が要る、のだと思っている(インターネットの発達でだれでも論ずることができるようになりそのハードルは下がっているのだろうが)。

幸いにも時間と書籍だけはたくさんあるので、好きなだけ知識を脳に入れ込んでいこうと思う。しかしそれにしても高校生までと比べて文章が頭に入っていかない感覚がある。強迫的に駆り立てられる気持ちがないからだろう。あの頃の私にとっては学校というきまった場所の流れに振り落とされないことだけが人生の殆どだった。

 

週に五千字、月に四本書いて二万字とするならたしか卒論と同じくらいの文字量になる。

私は卒業論文で何字くらい書いたかもう忘れたが、学科の風潮? 目安? として二万字を超える程度、とあるらしいことを聞いていたので二万字を超えた量で提出した。ひとつのトピックに対して一週間集中してリサーチと執筆と推敲に時間をかけていいなら、たとえば鷲田清一小林秀雄といったたいへん著名な評論家らのような思考の広がりのある名文は書けなくても、まあインターネットの片隅に存在を許されるくらいの文章にはなろう。

 

文章を書くことが好きだと自覚したのは高校生の時分だが、しかし私に小説の才能は無かった。その代わりくだらない創作文を散々書いて時間を無駄にしたおかげで気が付いたことがある。私は文章を構成するために言葉を捏ねくり回すのが大好きだ。

高校の課題では意見文と小論文が好きだった。意見文は何をテーマにしてもよかったのでとても楽しかった。自分が正しいと思うことについて自分は正しいと思う根拠をかき集め、言葉を選定し、文章を編む作業にはしずかな、しかし大きな高揚感があって、私はそれをまた感じたいために今回の課題を設定している。

小論文はものによってはつまらなかった。小論文模試ではテーマがあらかじめ決められていることが殆どだし、「ウケる書き方」も決まっている。ウケる書き方で書かれた作文はつまらない。就職活動の面接でベラベラとだれが話しても替えのきくようなありきたりの意見、たとえば御社の経営理念に共感して、とか、そういったお決まりの思想というか、文言が小論文模試の答案には存在する(注:個人の見解です)。そういうのが好きな大学の受験では受かるだろうが、私の脳は興奮しない。そんなものを私が書く必要はないし、頼まれても書きたくない。

というので小論文が二本課されるちょっとアレな大学(注:個人の見解です)の後期試験を受けたら受かったので行った。後期は倍率が大変なことになるしまあ受かったらラッキーかなくらいの気持ちでいたが、意外と後期試験は申込だけして欠席する受験者が多いようで、私のときも空席は目立っていた。三分の一か、半分くらいはもしかしたらいなかったのかもしれない。そして試験中はひたすら楽しかった。おそらくそのときもずいぶん脳が興奮していたと思う。本命で希望の学部学科の試験だったので、与えられた課題について考えることなど試験というよりももはや趣味とか娯楽の範疇である。母校に関して言えば、ありきたりな、それこそ小論文模試の回答のような優等生的模範解答を出したら逆に落ちていたと思う。誰でも言えるようなことしか言えないなら、合格が「その人」である必要はない。しかしそういうおとなしい文章が好みの学校もあるようだから、小論文試験を受験する際にはリサーチが必要らしいことを高校三年生の終わりに知った。

私の年度ではソクラテス無知の知についての日本語文を読み、それについて要約と自分の意見を書くこと、それから外国語を学習することに関する英文を読み同じく要約と意見を書くことが要求された。無知の知についてはあまり何を書いたか覚えていないが、外国語学習については日本の言語教育をひたすら罵倒していたら解答欄が埋まった記憶がある(外国語を覚えるよりも日本語レベルの体系と語彙数のある母語を持つなら先に母語の運用能力を上げるべきだ、日本の学校文科省は一体いつそれに気が付くのか? というような怒りを吐露していた気がする)。

 

ところでその小論文で合格して通っていた大学に居たあいだに使っていた奨学金、それについて返還猶予申請の可否を知らせる封書が今日届いた。リジェクトされていたら死ぬしかないなと思いながら開封したら通っていたのでまだしばらく生きていてもよいことになった。

 

今はyoutubeで雷雨の音を流しながらこれを書いている。本当はNirvanaのアルバムを聞きたかったのだが同居人にメッセージで置き場所を尋ねたところ返事がまだないので仕方がない(私は今の部屋に自分のCDを一枚も置いていないので、この部屋にあるCDは全て同居人の私物である)。換気のために居室のドアを開けており、換気扇の音が集中を削ぐので音を聞きたかった。雷雨の音は学生時代からよく使っていた。ある程度一定で、ある程度ばらついていて、脳の動き回るのを邪魔しない。

 

と、いまここで二千字程度である。

高校の意見文はゴールデンウィークの一週間程度に課される課題であった。私は三年時原稿用紙に七枚書いて提出したので、改行も考えると二千八百字よりは少ない字数だったことになる。四から五千字で書きたいという目標は単純に原稿用紙十枚は四千字、しかし切りが悪いので五千字でもいいか、というところからきている。引用をするならおそらくそれくらいは必要になろう。

 

これからトピックのメモ的なことがらや、言語化が成立していない雑感としてのメモ書きもあるだろうが、とりあえず毎週なにかしらについて調べて考えたことを書いていく。

ということで今日はこれで終わりにする。