一握の真砂

ジャズりんご

夜は雨が降った

料理において慎重さは美徳だ、と店長が言った。店長というのは昔私がバイトをしていた居酒屋の店長である。料理中ほかのことをしようとすると火の加減や焦げ付きや煮えすぎが気になって集中できないし、私は完全にシングルタスクマンなので料理中に本など読みだしたら煮汁が乾上がって鍋底に穴があくまで気が付けないだろう、ということで、私の料理には多くのリソースが投入される。厄介な性分だ。

読み書きをしながら煮炊きをするとき、読み書きには全く集中していない。たぶん2:8くらいだろうか。8は料理に意識を配分していないと、焦がす、鍋に穴をあける、失敗する、ということが予想される。集中の配分、それを考えると私はマルチタスク者とは程遠い。というのは最近気づいたことだ。最近気づいた、逆にいうとそれまで気づかなかった、のはこの頃はだらけきった生活をしていて全く集中とは離れた暮らしをしているからだ。

料理において慎重さは美徳だ、と店長は言った。そうしたら、読み書きにおいて美徳とされることはなんだろうか。

慎重に読む、というのはいいことかもしれない。世の中に出回っている文章は妥当性にかけるものが殆どだ。特にこのメディアが多様化してしまった今世では。伊坂幸太郎陽気なギャングが地球を回す』で印象的な台詞がある。確か久遠が言ったと思う。今住んでいる家に原本がないので完璧な引用は難しいのだが、「本に書いてあることで正確なことは定価だけだ」というような台詞だ。この頃は特にそうだな、と思う。私は本屋で平積みになっているなんとか簡単ダイエットやらなんとか健康法、長生きしたかったらうんたらかんたらをしなさい/するな、という命令文でタイトルがついているあの本たちを憎んでいる。

先日Twitterですごい文言を見た。「血液クレンジング」。個人的な話をすると、うちの親は水素水を肯定的な目線で見ている。たぶん、血液クレンジングをやる、と言ったら私は中学校理科の教科書を持ち出して止めるか、それでもだめなら見捨てるだろう、と思った。

まあ似非科学の話はどうでもいい。どう読むか、という話を深めよう。

批判的に読む、というのは大学教育の柱であろう。私は就職する勇気もなく、専門学校に行くほどの興味ある分野もなく、なんとなくやりたいことをやろうかなで大学進学したクチだが、資料を批判的に読むというのは大学に行かなければ身につかなかったスキルかな、と思う。元来そう頭の出来がいいほうではないのだ。批判的に読み、正確性と妥当性に欠ける箇所があればなぜそうなっているのかを精査していく。データや情報のソースを自分で確かめる。これができるようになったので4年間金を払って勉強と研究をする意味は十分にあると思う。

『モードの迷宮』を読んで服飾について考えたり比較したことを書こうと思っていたのだが、週末に現代音楽? というのだろうか、私には定義できないジャンルのライブがあり、観に行くので音楽史の本を一冊読んでからそっちを先に考えることにした。何が書けるかはまだわからない。実らないかもしれないが、種を植えるか畑を耕すくらいの行為にはなろう。

ちなみに今日は1ページも本が読めなかった。朝一度起きて、それから夜まで寝続けていたせいた。精神状態もかなり悪かった。やりたいとかやろうと思うことがあるのにそれができないとき、死んだほうがマシだな、とよく思う。今日に関して言えば、雨も降り始めたので気圧とかのことがあったのかもしれない。

書くことについて:

PCに向かってタイプをしている時間だけが書くことではない、とブログでまとまった文章を書くようになってからようやく気付いた。なぜ卒論執筆時に気づかなかったのだろう。阿呆だからだろうか。たぶんそうだ。

書くことは、私にとっては8割か9割が読むことである。読まないと書けない。というのは、文章の構成を見て自分の書き方を世界のどこかに位置づけるというのもあるし、そもそもその本が何を言っているのか、著者は何を言いたいのか、それに対して自分の精神的な部分がどう反応するか、それをじっと観測しなければならない、ということだ。自分の書き言葉(この頃は打ち言葉も)に対する反応、それを観察して本流の文章から派生した、まだ言語化されていないなにか、それを文字に、文に、それを編んで文章として産出することが書くことであって、何も読まない/体験しないで書けることはそうそうないのだろうと思う。少なくとも、私のような凡夫にとっては。

読み書きにとっての美徳は真摯であることだろう。これは哲学とか倫理学とか研究をやるうえではなんでもそうだろうが。自分にも他人にも嘘をつかないでいることが読み書きにおける美徳であろう、と今夜はこのあたりで締めることにする。

夜に差し掛かったときから雨が降っていた。金木犀のにおいが濃密になって、やけに甘ったるかった。私は晴れた夕方の金木犀のほうが好きだと思った。