一握の真砂

ジャズりんご

インターネット上でブログを書く意味

今日はそろそろ目がきびしいので、これだけ書いて就寝とする。

インターネット上に日記を書いて公開する意味ってなんなのか、と考えていた。結論は検索可能性だった。

私のメインの溜まり場(?)みたいなものはツイッターで、そこでインターネットの人間とやりとりが発生することはあるし、むしろツイッターの公開アカウントは交流用ととらえているところがあるが、このブログはコメント欄も開放していないし、私に他ブロガーと交流する気があるかというとそれは殆ど無い。

ツイッターはログの流れが早い。ふつうのツイッター内部の機能の検索で出てくるのは最近または古すぎるツイートが多く、かなりの数が落とされているのを肌で感じる。絶対にログが残っているはずの自分のツイートのワードで検索しても出てこなかったりとか。そういう意味で、ツイッターは記録管理にはあまり向いていないと思う。

その点ブログは、自分の書いていそうな語句をブログ内部で検索すればなにかしら出てくる筈なので、考えや思い付きの種を埋めておくのによい土地という感じがする。なにか考えたことや感じたことを書いておくと、また紙とも違って検索がかけられるのがいい。アナログの紙にCtrl+Fは使えない。「なんかこんな話してた気がする」というのを深めたいとき、書いておいた思い付きが発芽しそうなところがよい。

さいきんはnoteがかなりの隆盛を誇っている印象だが、noteではなくブログを選んだのは単に慣れ親しんだ媒体だったから、というそれだけだ。インターネット老人会

今はカテゴリ分けをするべきか悩んでいる。書く記事がどれもとっ散らかっているので、そもそも何で分類したらいいかわからない。過去記事を読み直してどうにかしたいな、とは思っている。

情緒が死んだかもしれない

文庫本を一冊買って読んだ。SNS上で定期的にその本の台詞がバズるが、まだ読んだことがなかった。加えて疫病のために公立の図書館がしばらくずっと閉まっているので、読みたいなら買うしかないな、と購入する運びとなった。

あれだけ世の中の人になるほど~とかこの台詞いいね、と思われているのだから、しんみりした名文が頻出するのだろうかという期待があった。そんなことはなかった。淡々と出来事が綴られていく感じで、何ヵ所か感情的な起伏があったりして、まあ普通の「小説」だった。小説らしすぎるくらい小説だった。

情緒が死んだかもしれない。私はこの文庫本を読む前かなり期待していたから、ちょっとショックだった。もっと物語に没入できると思っていた。でも実際は舞台の脚本のように、ストーリーの何が起こるかを淡々と読み進めていくような感じで、物語の世界に入り込んで何かを見出したり、考えたりすることができなかった。

代わりに、キャラクターの否定的な台詞(たとえば、乱暴な言葉、罵倒)や、えぐみの強い感情に触れると、それが外傷のようにじんじんと痛む感触を覚える度合いがすごく強くなっていた。

この2,3年は特に自分に向ける意識で手一杯だったから、外部から受信するアンテナが弱っているのかもしれない。古びて、劣化し、満タンに充電できなくなったリチウムイオン電池のように、ストレスを受けることに対して非常に耐性が落ちているのを感じる。

とても残念なことだ。

 

頭の中で起きていることを書くというのは

目の前で起きた、あるいは起こったことを書くよりも難しい。ある程度聡明な中学二年生くらいならすでに気が付いていそうな事実にいまさら慄いている。

アルジャーノンに花束を』を思い出す。主人公のチャーリィの「経過報告」は、はじめは事実の羅列が殆どだったが、IQが上がる(という設定の部分になる)につれて、抽象的な考えやアイデアと呼ぶべきようなもの、考察、理論、論理的思考による物事の結びつきに移り変わっていった。あれだ。知的な部分が未成熟な、たとえば子供のうちは、「祈り」とか「愛」とか「倫理」とか、そういう概念的なことについて語るのはとても難しい。

大学で勉強してレポートを各授業で提出したことと、卒業論文を書いたことで「Aという事象が観察された。これから述べることができるのはBだと思われる。Cについては先行研究を掘り返しつつこれから探っていきたい」みたいな文章ばかり書いていたせいで、情緒的なことばのテクスタイルがどんなものだったのか、私は忘れかけている気がしてならない。それは非常に残念なことだ。

私も涼し気な風が透き通るようなさわやかな、インスタグラムを跋扈するナウな女子高生にバカウケのエモで映えな日記や散文などが書けるとよいのだが、真夏にエアコンをつけ忘れたままなんだかあいまいなまま性交に及んだ後ぬるんだ麦茶やビー玉をポンッてして開けるソーダを飲む、などの気怠い記憶がないので、人間日々の自分の身の丈に合った生活を各々踏みしめていきましょうということなのだと思う。ちなみに私は村上春樹の小説を「なんだかあいまいなまま性交に及ぶ文章の群れ」と評価している。ノルウェイの森しかちゃんとは読んだことないけど。

基本ブログの文章は推敲しないことが多い。もちろん誤字脱字・矛盾は無いに越したことはないが、ブログ記事という単位で自分の考えを執筆、保存、加筆、修正、保存、推敲、修正、としているといつまで経っても記事が日の目を見ないため、なるべく書いたらすぐにアップロードするようにしている(事実関係の確認が必要なものを除いて)。

そうだ、今日ブログを書きだした切っ掛けは合同誌にお誘いいただいたことだった。私にまだ情緒的なテクスタイルを織る力が残っていればいいのだが。

 

ADHD(傾向)者の部屋の散らかり方について

思ったこと。

散らかり方に文脈が存在しない。

というのは、たとえば引き出しから調理パンが出てくるとか、床に食器や食べ物がおいてあるとか、「本と画材と精密電子機器と果物と文房具とペット用品が同じ場所から出てくる」のような状態を指す。

ADHD(傾向)と診断されても部屋が整っている人もいるのは知っているが、その要素を持って住処が荒れている人は大体の共通点がある感じがする。

まずシンクが汚い。洗い物を溜め込むこと、シンク自体を掃除しないこと。次に散らかり方に自分が理解できるような文脈が存在しないこと。前述の「本と画材と精密電子機器と果物と文房具とペット用品が同じ場所から出てくる」ように、「なんでそれが……?」「なんでそこから……?」ということが起きがち。

住処を「住居」というより「巣」みたいに構築している人が多い気がする。

 

でも、ADHDの頭の散らかり方に対しては薬があるだけまだいいな、と思う。ASDには未だ無いので。

摂食障害垢やダイエット垢の「ごめんなさい」に関する前々からの疑問

「摂食(障害)垢」「ダイエット垢」という存在をご存知だろうか。

ツイッターではしばしば「〜垢」という表現でその内容に関することを主とするアカウントであると主張することがある。摂食垢やダイエット垢もそのうちのひとつだ。

 

摂食障害では諸々の精神的・対人的な問題から食べ物を食べられなくなったり、あるいは自分から(過度に痩せたいと)望んで食べなかったりする拒食、また食べ過ぎてしまう過食、そしてそれを吐き戻してしまう過食嘔吐などが見られる。 ダイエットは身の周りで多く使われているそのままの意味だ。減量や筋トレのことを指す。 その摂食障害垢やダイエット垢で散見する表現について取り上げたい。

基本的に、摂食障害垢やダイエット垢をプロフィール欄に掲げる人たちはツイッターの投稿を記録とその共有に使っているようだ。 例えば、ダイエット垢では今日の朝食はこれで昼食はこれで、とメニューを書いて写真を載せて、それらのカロリー計算をしたり、その日の体重を記録したり、自分の体型を写真で撮って変化を観察したり、そういった記録のツイートが多い。 摂食障害垢では例えば過食する人の場合いわゆる「過食材」(おそらく過食+食材、過食するために食べるもの)を床やテーブル一面に並べた写真を撮ってツイートしたり、拒食の人の場合では「今日はこれだけで済んだ」と食事内容を記載することがある。それから「食べたい」という本能的な欲求、そしてそれに伴う「食べてはいけない」という葛藤も。摂食障害克服中、という人もいる。それに関しても、前述の二つと同じように、食事の内容や体重を記載して、だんだんと拒食や過食や嘔吐を避ける方向に進みたい、という人たちである。 どのアカウント群にも共通するのが、 「今日は食べ(過ぎ)てしまった」(過食をしてしまった、あるいは拒食の人であれば自分の許せない量を食べてしまった/ダイエット垢であればおやつや三食の量が多かった、自分の取り決めで禁止していたこってりのラーメンを食べてしまったなど)という日と、 「今日は食べなかった」(食べないで済んだ/過食をしなかった/おやつを我慢できた)という日のツイートがあることである。 今回取り上げる表現の疑問は食べ過ぎてしまった日の発言にある。 彼女らが食べ物を食べ過ぎたとき、そしてそれはおそらく自分で決めた量を守れなかったとき、「ごめんなさい」という言葉が頻繁に出てくる。

少し検索してほしい。“過食 ごめんなさい“ とかで。ツイートの引用もはてなでは可能であるが、特定の人をとくべつ取り上げることに気が引けるのでここでは行わない。 “ダイエット垢“や”摂食垢”などで検索して、出てきたアカウントのツイートをざーっと眺めるのもいいと思う。ツイートの内容が一定して食事の記録とそのコメントであるアカウントなら、どこかに必ず「今日はどうしても我慢できなくて食べ過ぎてしまいました。ごめんなさい。明日からまた心機一転してダイエットがんばります💪」のような表現が出てくるはずだ。 この「ごめんなさい」という謝罪の表現は誰に向けられたものなのか? また(ダイエットや過食克服の目標を立てた人が)食べ過ぎたことを自省することは理解できるが、なぜ「誰かに」謝る必要性があるのか?

ひとつはそれらのアカウントがSNS(ここではツイッター)上に存在することが原因かと考えられる。彼女らはそのアカウントの運用を相互監視している(無意識にでも)。 ダイエット垢では「同じ目標を掲げて頑張っているのにみんなのモチベーションを下げるようなことをしてごめんなさい」ということなのだろうか。もともとダイエット垢では「⚪︎⚪︎kgが目標です、減量して綺麗になりたい。」という内容と一緒に #ダイエット垢さんと繋がりたい というタグが用いられダイエット垢同士のみでフォローし合うことが多いから、おそらくダイエット垢に関していえば「みんなでダイエットを頑張っているのに私は我慢ができませんでした」とフォロワーのみんなに向けて反省文を提出している振る舞いが考えられる。

しかしダイエット垢よりもわかりにくいのが摂食垢における「ごめんなさい」だ。 摂食垢にはいろんな段階の人がいる。ダイエットが過ぎて不本意にも拒食になった人、拒食でつくられた身体を美とするために自発的に断食に近いことをする人、過食をやめたいけどストレスがかかると過食をしてしまう人、食事を我慢し、そして過食し、嘔吐し、そのループを断ち切れない人。 拒食・過食・嘔吐についてポジティブな人もネガティヴな人もどちらもいる。ポジティブな書き方をしている人たちでは、衝動的なストレス発散の手段として過食嘔吐を使っているとか、どんどん体重の数値が減るのが嬉しいので前向きに拒食をしているとか。ネガティヴな書き方をしている人たちでは、摂食障害から脱したい(だが脱せない)という様子が伺える書き方が多い。摂食行動と罪悪感がセットになっている。 そこで出てくる「ごめんなさい」である。

アルコール依存症自助グループにAA(アルコホリクス・アノニマス)というのがある。匿名性の保たれた、アルコール依存症患者の集いである。AAの詳細については検索してほしいが、たとえば漫画『健康で文化的な最低限度の生活』(著者:柏木ハルコ小学館、2014~)において「赤嶺岳人(あかみね たけと)のケース」で具体的に描写されていたりする。映画「ファイト・クラブ」冒頭でも多くの自助グループの描写がある。観たことがある人は参考にしてほしい。その場で行われることは、告解的な、たとえば「開かれた懺悔室」があればこういう風だろうか、という告白である。聴者はその告白に対して否定も肯定もしない。ただ話し、それを聞く。話し手は自分のアルコールとそれに関係する過去・現在・未来について話すが、それについて聴者からコメントを受けたり、その内容が外部に漏れることは無いように配慮がなされている。

摂食垢の「ごめんなさい」は、このAAの話し方における表明に近いものを感じた。ただ話し、ただ聞く。否定も肯定もされない。たまにそういったツイートに「●●ちゃんは頑張ってるから、また明日から頑張ればいいよ」や「わかる、私も食べちゃった」などのリプライが付いていることもあるが、言及されないことが多いように見受けられる。

摂食垢は特に、このAA性(匿名であること、依存症に関すること、告白すること、それをただ話し、聞くこと)が高いのではないだろうか。

 

以上、AAとダイエット・摂食垢における「ごめんなさい」の親近感に対するモヤモヤの言語化でした。何か付加するご意見があればリプライ等でください。

それではまた。

2019年のカウンセリング用資料から抜粋

冬のカウンセリング用資料掘り起こし

ゴミ箱行きにしようかと思ったがそのとき考えていたことの一部を残しておこうと思ったのでここに載せておく。

 

12/5木曜に診察を受けた。
記憶の中の、いつまでも持続する激しい怒りをコントロールできず困っている話をした。それはフラッシュバックだというのだと言われた。フラッシュバックというのはPTSDとかトラウマという語と共起する現象だと思っていたので特に暴行被害や戦争体験があるわけではない個人の生活においても「フラッシュバック」という語を使うのだな、と思った。「それはASDの特性なのか、双極性障害の特性なのか、個人の特性なのか」ときいたらASDのそれだということだった。

同居人や友人に「ムカつく記憶はどうしているのか」と尋ねたら「時間がたてば忘れる」とか「それに構っている時間がもったいないので考えない」とか言われるけど、それができたらリボトリールこんなに飲んでないしそもそも精神科になんて通ってないな、と思った。

 

12/14
デッサンは楽しいことも嫌なことも忘れて無になりそれだけに集中できるのでいいが、うまく集中のモードに入れるときとそうでないときがある。
無のときは精神的に充実していると感じるけど、描いている絵自体はうまいわけでもなく技巧が上達したからといってなにがあるわけでもなく(たとえば美大受験のために描いているとかそういう目標や到達点がないので)、ときどきむなしいきもちも感じる。
神保町の画材屋でアートスクール(何回かに分けてデッサンとか油絵とか水彩をやるらしい教室のようなもの?) のパンフレットを見て興味を持ったが、知らない講師は相性が悪いと嫌気がさすリスクが高いし、どのコースも3か月と2万円ぐらいかかるので検討した結果やはり一人で好きに描いていようと思った (3か月で6回を修めるのは時間かけすぎだし、2万あったら数をこなす紙代やモチーフ代にしたほうがいい)。

やはり一日中多弁で行動が多かった。
その後角煮の下準備をしてゆで卵を作って鶏のスープを作って現在朝の4時前である。

自分のために何かをしてくれる友達がいないという気持ちがある。「誰も友達じゃない」という表現をよくする。これが認知の歪みか事実かはわからない。

何も書いていないということを書いておく

ずっと何も書いていない。

何も書いていないでいることの自覚を持ったのでそれを記述したいと思った。

なるべく起動の速いPCかポメラを買って、書くことへの精神的なアクセスの悪さを解消したい。そうしたら、書くことがもっと習慣付けやすくなるはずなので。